昔の人の健康食

1 美人の味噌つゆ−和泉式部の才能と美貌生む

 和食の最もシンプルな献立は「一汁一菜」。ご飯に汁物が付き、おかずも一品という意味である。

 ここでの「一汁」は、普通はみそ汁のこと。
 みそ汁の呼び方は土地によってまちまちで、「みそ汁」が一般的であるが、「おつけ」になったり、「おみおつけ」「おつゆ」になったりする。「みそつゆ」ともいい、この用例は古く、すでに平安時代には使われていたようだ。

 恋多き情熱の歌人として有名な平安時代中期の和泉式部が『和泉式部集』の中に次のような作品を残している。

 花にあへば みぞつゆばかり 惜しからぬ あかで春にも かはりにしかば

 「みぞつゆ」はみそつゆのことと解釈されており、簡単にいうと「あなたのようにすてきなお方のためなら、私が大事にしている味醤(みそ)=現在のみそ=をあげても、少しも惜しくはありませんわ」というほどの意味だ。

 煮豆と塩、麹などで発酵させ、熟成させたもので、調味料やおかずとして極めて珍重されていた。ご飯に添えて食べていたようで、大豆アミノ酸や乳酸菌、酵母菌、それに消化酵素などが多く、彼女の才能や美貌(びぼう)を生み出す宝物のような貴重品だったのではないだろうか。
  
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 即席みそスープの作り方
 どんぶりに生みそ、カツオ節、刻みネギを入れて熱湯を注ぐだけ。すばらしく味のよいスタミナ強化スープができあがる。疲れたときにもいいけれども、夏かぜのひき始めにもってこいだ。頭脳力をパワーアップするのに役立つレシチンもたっぷり。

 

 

2 きな粉餅パワーで71歳で9男誕生の毛利元就

 毛利元就(1497―1571)というと「三本の矢の教え」で有名であるが、あふれんばかりの精力家でもあり、正室と側室の間に9男2女をもうけている。

 71歳のときに側室に生ませたのが9男の秀包(ひでかね)だ。71歳だよ。戦国時代の武将はパワフルだなァ。さすがの元就も自分の歳を考え多少は気になったようであるが、秀包はのちに立派な武将になっている。

 好色だった徳川家康(1542―1616)も子作りに励んでいるが、最後の子は66歳の時。そのあとも側室は迎えているが、子を産ませる力はなかった。

 精力的にいえば元就の方がずっと上。ただ2人とも75で世を去っており、当時としてはずいぶん長生きだった。子作りパワーの強い人物は、生命力もしたたかなのだ。

 元就が乱世に頭角を現すのは50歳を過ぎてからで、周囲のライバルを討ち果たし、中国地方の支配者になってしまう。好物に餅があった。当時、よく用いられたきな粉をつけて食べていたのではないだろうか。

 きな粉は大豆を煎って粉にしたもので、戦国大名に不可欠な頭脳力を高めるレシチンや精力パワーアップに効果的なアルギニンというアミノ酸が多いのだ。
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 食べ方

 スタミナを強くするためには、ミネラルの亜鉛も欠かせない。セックス・ミネラルの別名もある亜鉛が、きな粉にたっぷり。餅にも含まれているのだ。しょんぼりしていないで、さァ、きな粉餅を食べてがんばろうではないか。

 

3 大僧正・天海 長生きの秘訣

 江戸時代に活躍して驚くほど長生きした天海(1536―1641)は、雪深い会津の出身で108歳まで生きた。

 天海は、実は生年月日が不明と言われ、140歳まで生きたという説もある。天明3(1783)年の『閑窓筆記』に「大僧正天海、年百四十歳。すなわち恬淡(てんたん)で緩慢。これがわが延寿の法なり」とある。簡単にいうと「私の長寿法は欲をかかずに人生ゆっくり」ということ。

 欲は欲を呼びストレスが重なって脳溢血一直線だ。人生はスローライフで長生きできるようになっている。人間の一生の脈拍回数は一定だそうだ。年中走り回るような生活をしていれば、自分の持ち時間を早く使い切ってしまう。皆さん、急いだって何もいいことなんかないんだからな。

 徳川家康の知恵袋といわれた天海は、秀忠、家光と将軍3代にわたり、大変に信頼を受けた僧であるが、ある時、家光から長寿の秘訣を聞かれ次のように答えたと伝えられている。

 「気はながくつとめはかたく色うすく、食ほそうしてこころひろかれ」

 気持ちはゆったりとして色気はほどほどに、大食せずに心は広く持つべき、という意味。会津の郷土食の納豆汁が好物で長生きに役立っていた可能性も高い。

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 天海の納豆汁
 火にかけた鍋にささがきゴボウ、ニンジン、サトイモ、大根、ハクサイなどでみそ味のけんちん汁を作っておき、包丁でたたいた納豆を入れ、ネギを散らしたら火を止めてできあがり。

 

4 宮本武蔵も常食にした「玄米干飯」

 とにかく強い。誰と試合をしても、勝つのは常に宮本武蔵(1584―1645)なのだ。13歳の時に有馬喜兵衛という新当流の達人を一撃で打ち倒して、武芸者としての道を歩き始める。

 以来、62歳でこの世を去るまで六十余度の勝負をするも、1度も負けたことがないと「五輪書」に記している。特に有名なのが、舟島(巌流島)で佐々木小次郎と行われた決闘。このときも勝ったのは武蔵で、櫂(かい)で作った木刀で相手を倒している。

 武蔵は何を食して、これほど鋭い肉体と勝負運、そして剣技を高めたのだろうか。詳細は不明である。しかし、彼の行動原理の書である「独行道(どっこうどう)」には、「身ひとつに美食を好まず」とある。

 当時の武士は1日に玄米5合(750グラム)を朝と夕の2回に分けて食べていた。基本的には武蔵も同じだったはずである。

 諸国修行中は、兵糧によく用いられた「干飯(ほしいい)」が中心だったとみてよい。米を蒸してから干したものでカロリーの高い保存食だ。材料は玄米だからビタミンB1、E、亜鉛や鉄などの多い理想的な戦闘食。食べるときに湯や水でもどすが、あまりうまいものではなかった。
  
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干飯の作り方
 いつ何が起きるか分からない危険な時代になってきた。理解不能な凶悪事件が多すぎる。さぁ、玄米干飯を食べようではないか。玄米のモチ米を水につけてから蒸す。カラカラになるまで干したらできあがり。「食」だけでも武蔵に近づこうよ。

 

5 ニッポン人の知恵「うなどん」

 最初に登場したのが19世紀の初めごろとみられている。江戸の日本橋で芝居の金主をしていた大久保今助という男は大のウナギ好き。忙しくて鰻屋に行く暇がないので取り寄せていたが、途中で冷たくなりうまくもなんともない。

 そこで炊きたての飯をどんぶりに盛り、その中に焼きたてのウナギを入れ、さらにふたをして持ってくるように注文。

 これが大成功だった。
 ウナギは焼きたて同然だったし、飯そのものにもウナギのたれがしみついてめっぽううまい。ウナギの蒲焼きを入れた、このどんぶり飯は味の良さで大評判となり、献立に取り入れる業者が続出したという。

 幕末の『守貞漫稿』に「上方ではまぶし、江戸ではどんぶりという。鰻丼飯の略」とあり、どんぶりといったらうなどんのことであり、それほど人気があった。

 うなどんは美味なだけでなく、スタミナ強化にも即効性があるとして流行した。

 鰻屋へ古提灯を張りに来る

 当時の川柳で「古提灯」は“陰萎(インポテンツ)”のこと。さあ、古提灯が心配の方はうなどん食べに行きましょう。

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